デイサービス長老大学

高齢者が若者を支える。高齢者と共に未来を創る。逆支援型デイサービス 長老大学 のブログです。


満州でのお産と子連れでの帰国

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-満州での暮らしについて


満州国コリン県コリンという所におりました。
セイワチンという所があって、そこからコリンにいったんですけどね。

まあ、コリンという所は山があって、花が自然に咲いて、いっぱい。
それを、何言いますかね?土を運ぶこんなの。

あ、シャベルカーですか?
そう、シャベルカーで道をつけてましたよ。
はじめて見ました。もうずっと昔です。

こういうふうに官舎が六部屋ばあ、並んでありましてね。
四畳二間くらいいただいて。そこで家族はおりました。
隣にね、Tさんとか、Iさんという人がいたんですよ。
C准尉さんとね。Nさんという産婆さんもおりました。

奥さんたちはみんなお腹が大きいから。
そのお産婆さんもお産してね。
「お産婆さんがお産するというから行ってちょっと聞いてみよう」と思って。
変なことしましたね(笑)
いくらお産婆さんだっていうたって、「痛い痛い」言うてましたよ。
私らも初めてだから、あんなことにあわなきゃいけないが、これは大変じゃって。
もうね、驚きました。産婆さんでも痛いんだなあって。

-その産婆さんにに息子さんを取り上げてもらったんですか?

そうそう。
それでも私は案外、無事にできて。

お産前には夫のきょうだいがちょっと来てくれて。
満鉄に勤めてる看護婦で。

それにまた、お手伝いとして妹も日本から来てくれたですよ。
妹は若かったのにエラかった。18くらいで。
1人で平気で帰りました。エラいもんだったね。あの時分に。
私は父もエラかったと思う。

それからね。
Cさんというこの人の同輩。准尉さん。
その子が息子とお友達で。
友達同士で「バカや~」ってね(笑)友達同士で。
もう反抗期でしょ。
ウチに帰っても、気にいらん人がいるとすぐ「バカや~」って(笑)

そして、酒保というところにお買い物に行って。
酒保という軍隊の、お酒でも何でもあるお店。
そこへ子供をおんぶしてお買い物に行くのが本当に楽しみでした。

-満州からいつ頃引き揚げて来たか覚えていますか?

それが定かではないんですよ。
何年何月何日かということをね。もう生きることがやっとで。
私も日記にも書かないかんのに。

-満州から帰る時は、帰国の命令があったんですか?

そう命令。軍隊は全部命令。
アッツ島とかオオミヤ島という島が玉砕したというから。
やっぱり危ないから。
子どもがいる人は早うに返さんと命に関わると思ったと思います。
私らみたいにお腹の大きい人から。
それに麻疹が流行しゆうから早う帰らさなきゃダメだと。
それから日本が負けると思ったから。

-コリンから引き上げてくる時は官舎のお友達も一緒でしたか?

騎兵・歩兵・砲兵その各部隊から、「今日は誰それ帰りなさい」いう命令によって集まったもんやから。
私もまあ、記録しておいたらそしたらいつまでもお話もできるのに。
全然それが無いんですよ。
誰と帰ってきたかはもうわからない。もう、別れ別れになってね。

-満州のコリンから朝鮮のセイシンまではどう戻ったんですか?

満鉄というのがありましてね。満州鉄道という。
それでセイシンまで帰ってきて。

-満州鉄道はどれくらい時間がかかったんですか?

それも定かではないんですよ。
もう必死だったから。まだ若かったから覚えてなきゃいけないんだけど。
お腹はコレ(妊娠中)だし。息子の熱は出るし。

セイシン来たらまた大変でした。
あのセイシンの思いでいうたらね。
おしっこ。うんこ。五十家族も一緒に泊まったから。
五十家族それみんな庭に出て行って。庭でして。
大きな大きな旅館でしたけど。まあ迷惑をかけたと思う。

-おトイレは使えなかったんですか?

もう五十家族だからいっぱいで。
あそこには迷惑かけたと思いますよ。
そこで一泊して、水筒にお水ももらって。

-旅館の方たちがお水をくれたんですか?

そうそう。敦賀までは水は飲まれないから。
朝鮮の人たちが親切にしてくれてね。
食事も出してくれて。

ここにその水筒置いておったんだけと。
軍隊で使っていたオカズ入れとね。
あれもね。記念です。

息子は麻疹がうつったんだけど。
船に乗る時に大変でした。それも隠して入ったんですよ。
麻疹といったら帰れんから。熱があったけど必死に隠して。

それで、義勇軍という人達が、船の中でね。
「あなた達、もしか魚雷が来て船が沈むようなことがあった時には、この救命具をつけてなさい。
義勇軍が横に10人位おるから助けをしてもらいなさいよ」と言われました。

浮き袋を肩からかけてたら、「そのかけ方では あなたは助かっても子供がダメでしょう」って叱られて。
おんぶしゆうからね。ねんねこで。
「子供も助かるように上手にかけてください」って。

-義勇兵の人たちは軍人だったんですか?

どうも軍人じゃないと思いますね。
日本軍のお手伝いをする人たちですかね。
軍隊の下にそういう人たちがいたんでしょうね。

機雷や潜水艦に襲われないように一番の急流の荒波を通ってきたから。
ゴロゴロ転びながらご飯も食べられず。

-船の中には食事は無かったですか?

ありますよ。でも。それ取りに行ける人は少なかった。
みんなゴロゴロ転がって。なかなか大変でした。酔うし。
子供もこんなにコロコロコロコロ。
激流だから。とてもきついところしか通らんでしょ。
敵艦が来るから荒波を通って。
魚雷というのがあって。
今では考えられないけどね。

満州では私らは軍隊だったから食べるものはあって、カルピスもあってね。
それを買って帰ったでしょ。
麻疹で熱出している息子には軍隊で買ったカルピスを水筒の水で薄めて飲ませて。

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画:武井武雄 文:西條八十

 

-カルピスはその頃からあったんですか?

そうそう、カルピスも酒舗でかって。
満州に行ってはじめて。
おいしかったですねえ。
今でも美味しいです。前のスーパーにもありますがねえ。
もう良かった。
カルピスは息子の命の綱。

あの時分に二日二晩船に乗って帰ってきました。
一番荒い所を通って。敦賀に付いた時はもうひと安心。
よくお腹の子も流産せずに帰って来れたなと思いましたね。

敦賀から大杉まで戻ってきて。
大杉で水車が回っていた所で顔を洗って、息子の顔も拭いて。

大杉からはや土佐弁でしょ。
皆さんしゃべっているの聞いてやれやれって思うと同時に、乾パン。
この土地の人が。アレ食べてましたよ。

-満州に行く前はこの土地で乾パンを食べるなんてことはなかったんですか?

無い無い、全く。

-乾パンを食べるということは、よほど食料が不足していたということですか?

そうそう、日本も食料が配給時代だったと思いますね。
それ食べてましたよ。

-その頃は日本は負けるかもしれないという思いはありましたか?

それはありましたね。もう大変なことだと。

-久しぶりに戻った地元はどうでしたか?

帰ってきたらおばあちゃんが息子を
まあホント、皇太子のような子供だって(笑)
まあこれは可愛いと。できたお婆さんで大事にしてくれたけどね。

ウチは二階の家がありましたがね。二階は白壁でしたよ。
それも黒く真っ黒に塗ってあったの。敵に見つからないように。
家があると思ったら爆弾を落とされないように。
障子へは真っ黒な黒紙をずーっと吊って。
田舎じゃそんなことしないと思うけど。
やっぱそれくらい警戒してましたね。

ほんと大変な時代で。今が一番幸せよね。
今日もそう思う。
これからの若い人達に、「どうか平和な時代を」っていつも思う。
命を大切にしてね。田舎におっても都会におってものびのびと。
今はもう国際社会だから外国に行っても。
命だけは大切にね。そう思いますよ。