デイサービス長老大学

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「社長が倒れた時」元牛乳販売店経営 福島とみおさんインタビュー

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こんにちは。

デイサービス長老大学 代表の澤本洋介(@sawamoto482)です。

 

今日は「聞き書き」の特別出張編として、脳卒中当事者としてピアサポートなどの活動を積極的に行っている福島とみおさんへのインタビューをご紹介します。

 


脳卒中当事者に訊け!≪3分46秒≫1710-12

 

現在福祉分野で大活躍中の福島さんですが、元々は家畜人工授精と牛乳販売店の事業で活躍していた元気いっぱいの経営者でした。

 

今回お話していただいたのは、

「働き盛りの自営業者が倒れた時」 

私にとっても他人事でないテーマです。

 

脱サラ起業し、まさにこれからというタイミングで脳出血を発症し、倒産し自己破産してしまった福島さん。
お辛いご経験を明るく語り、会社経営を熱く語る福島さんの「強さ」に終始圧倒されっぱなしのインタビューでした。

 


-福島さん、今日はよろしくお願いいたします

 

何でも聞いてください、私に個人情報はありませんので(笑)

 

-福島さんは、牛乳販売店を始める前は、家畜人工授精のお仕事をしていたんですよね?

 

若い頃はトヨタのセールスしたり保険のセールスしたりガソリンスタンド勤めたり色々やってましてね。
色々やってみたいほうで。
会うたびに名刺が違うじゃないかと言われとりました(笑)

 

-どういうご縁から酪農関係のお仕事に就くようになったんですか?

 

青年団活動をやってまして。

そこで知り合った方に高知県の家畜改良協会を紹介されて勤めることになったのが酪農と関わったはじめです。

本山の木能津にとかに赤牛おるでしょ。

県下のああいう所に赤牛や乳牛のタネ、精液をね、毎月配りよったんですよ。

四国のホルスタインの事務局をやったり牛の品評会の事務局をやったり。

 

-はじまりは家畜改良協会の職員だったんですか

 

そうそう。

それしよったけんど、仕事で出会う農家さん達が本当に凄いのよ。

自然を相手にする仕事だから、想定外のこともおこるじゃない。

仕事に向き合う姿勢とか覚悟が僕らとは全く違う。

人間的にもすごく優しくて。

 

農家さんと話しゆうと自分らがチンタラ仕事しゆうのが恥ずかしくなってきてね。

あの頃の家畜改良協会にはお金の使い込みもあったし、中がひどくて。

それを内部告発してもこちらが潰されそうになったり。

 

-内部告発もしたんですか!

 

したした。したけど相手のほうが強かった(笑)

こんな組織は終わっちゅうなと。もっと自分らしい生き方がしたいと。
農家さんの近くで一緒に仕事がしたい!と思って協会辞めて人工授精師の資格取ったのよ。

 

-超かっこいいですね!

 

かっこよくない、負け戦よ(笑)

 

-行動力が凄いです。福島さんがおいくつくらいの頃ですか?

 

さあ、40歳か、ちょっと手前くらいだったかな?

「おまえ今ごろ人工授精師になったってどうにもなるか」って散々言われたけど、やると決めたらやるしかないから。

そうしたら、高知市で人工授精もしていた獣医さんが愛媛に帰ることになって、「福島、あとやってくれんか?」と声かけてくれて。

 

失敗もしたけんど、迷惑かけちゃいけないと思って必死でやったね。

営業も回って。

休み無しで種付けして毎月けっこうな額稼げるようになって、天狗になって(笑)

 

-それは会社組織としてやられたんですか?

 

いや、個人事業で。ファームマネジメントPSDと屋号つけて。

 

-PSDとはどういう意味ですか?

 

パッション!スウェット!ドラマティック!

情熱と汗と感動という意味(笑)

アホよのう(笑)

 

-いや、最高です!

 

牛乳販売店はどういうきっかけで始めることになったんですか?

 

その頃、ソフトボールやってたのよ。

牛のエサ屋さんとか酪農家と一緒にチームつくって大会出て。

そしたら皆と話になるわけよ。

「牛乳が売れんことにはと酪農家は安定せん」

「酪農家が安定せんとエサ屋さんも他の関係者もみんな安定せん」

「販売メーカーは何をしとるんじゃ!」

と、販売メーカーに腹が立つわけよね。

 

ある時、酪農家の結婚式に行ったときに前に販売メーカーの人がおったから「おまんら、もうちっと売る気で売らんかよ!」と偉そうに言ったのよ。

 

そしたら「福島くん、おまん、やってみんかよ!」

「やるやったらウチの倉庫貸しちゃうで。儲けるまではタダでかまん」と話が俺がやる方に向かって動いていって(笑)

 

-凄い展開ですね

 

種付けで経済的に余裕があったので、「よし!やるか!」となって。

青年団活動やってた関係で、地元で仕事がしたかったのよね。

消防団にもずっと入りたくて、地元で仕事始めてやっと入れて。

でもはじめは自転車操業よ。

 

-家畜人工授精業もやりながら販売店をやってたんですか?

 

そうそう。種付けで儲けた金を全部牛乳販売店に突っ込んで。

パートさん雇って社員も雇って。

 

人探しには苦労した。

1年に少なくとも100人は面接したね。

でも本当にちゃんと働いてくれるのはほんの一握りだから。

極力自分は動かんでえいようにしないといかんかったんやけど、どうしても足らん時は動かんとしょうがないからね。

自分でも営業もして配達もして。

 

-自分で配達もされてたんですか、それは大変でしたね

 

一番大変なのは仕事よりも人間関係。

人を雇うのは本当に大変よ。

今人を雇ってる人を見ると「ご苦労さん」と思うわ(笑)

あんたも大変やろ(笑)

人を雇うちゅうと信じられんことがいっぱいあるろ?

 

-(笑)

 

明日から来ます言うといて来んかったり。

そんなんしょっちゅうよね。

業務の中のトラブルもあるけれど、人間関係のトラブルも凄いもんね。

もう思い出すだけでしんどいわ(笑)

人を管理する役職を持てるような大きな会社になるとまた違うだろうけんど、小さな会社は社長がみんなやらんといかんしね。

 

-そうですよねえ

 

そんで3年目に1000件のお客さんを達成してパーティーを開いたのよ。

ようやく損益分岐点を超えて、種付けの仕事の儲けからお金を補填する必要がなくなったと。

これから楽ができるぞと(笑)

 

-凄いじゃないですか!

 

そしたら、その3ヶ月後に倒れたのよ。

これから始まるぞという時に倒れたのよ(笑)

 

-それは辛かったですねえ。。

 

倒れたのは日曜日やった。

これから牛の種付けに行くぞという時に服を着替えよったらタンスの前で倒れ込んで。

その頃はまだ携帯電話は流行ってなかったけれど、自分は牛の種付けしよったからいつも持っちょったから良かったのよ。

消防団にも入っちょったからすぐに救急呼んで。

家の前で救急車待ちながらも何度もモドして。

救急車来てピーポーピーポー運ばれていくところから、2週間記憶がない。

 

気がついたのは日赤病院の窓から外を見ている時。

車椅子から手すりにかきついて立ち上がって。

あれっ自分は何しゆうやろ?ここはどこやろう?汽車が見える?高知か?って。

 

その前の2週間は全く記憶が無い。

見舞いに来てくれた人の声かけにゴニョゴニョ返事をしよったらしいけんど、全く覚えてない。

3週間は日赤病院に入っちょって、その後は近森のリハビリに6ヶ月入院。

 

-販売店はその間どう動いてたんですか?

 

販売店はアルバイトの女の子が急場をしのいでくれた。

僕の先輩の洋服屋の社長が「福島はどんなにしよった?」ってその子の相談に乗ってくれて。

その子が俺が倒れてからおおかた1年頑張ってくれて。後に店長にした。

 

-お金の管理とか、パートさんへの給与の支払いとかはどうされたんですか?

 

全部その子がやってくれてた。元々事務もやってもらっちょったき。

通帳とハンコはお袋が持ってるから、そこに取りに行って手続きしてくれて。

 

-正職員さんはどうされてたんですか?

 

正職員は2人居て、営業を頑張ってもらっていたんだけど。

まあ、社長が居なくなると、まあ。。

売上的には一挙に奈落の底よね。

1年後、俺が戻ってきたら2人とも「辞めらしてもらいます」とね。

 

-きついですね

 

アルバイトの子も営業のことでは悩んどったらしいんやけど、リハビリ中の俺によう言えんかったみたいで。

まあ、俺が悪いのよね。

なんていうか、人を育てるということに関してきちんと考えてなかったね。

社員教育というか。

ほんとド素人だったのよ。

 

-立場が似ているのですごくわかります
僕も1人で指圧師やってきて、今も指圧やりながら職員雇ってデイサービス経営してますので

 

結局、社員が育たんと同じところを堂々巡りになるのよ。

同じ失敗が延々と繰り返される。

会社の前進には社員の成長がかかせないんだけど、日々の業務に追われると土台作りがおろそかになるよのね。

 

自分は人工授精の仕事で忙しかったし、まあ「やってくれたらいいわ」くらいなもんで、自分がもし倒れたらなんて思ってもみなかったから。

風邪引いて休むこともなかったし、病気になるなんて思いもせんかったよね。

 

-退院後はどのように仕事に復帰されたんですか?

 

倒れたのが6月で、退院したのが翌年の1月。

退院して1ヶ月位は週に一度職場に顔を出すくらい。

2ヶ月目くらいから車の運転の練習をしながら週に2,3回職場に行けるようになって、4月頃から定時いっぱい職場に居れるようになった。

 

-それだけの間、福島さんがいなくてもお店が回っていたのは凄いと思います

きちんと仕組みをつくっていたからというか

 

いやまあ、みんなのおかげよね。

けんど売上が下がっていくから。

それまでは無借金経営で来たけれど、お金が尽きてきて、銀行からお金借りて。

そこで法人化したのよ。金借りるために。

 

-倒れてから、お金を借りるために法人化したんですか

 

そうそう。

この体になったら人工授精はできんし。

どこも雇うてくれんから販売店を頑張るしか方法ないと思って。

法人じゃないと金融機関はお金貸してくれんきね。

行政書士と税理士の友人が本当に安く手伝ってくれて。

 

-その後、会社は2011年に閉められたということですが、どういう経緯だったんですか?

 

なかなか思うようにはいかなくて。

銀行と仕入先への借金は増えていって、仲間からもお金を借りて。

 

-利益が出ていなくても職員さんやパートさんへの給料はどんどん出ていきますからね

 

そうそう。人件費が一番出ていく。

2010年の10月頃にね、いよいよ潰れてしまうのでなんとかしようと思って。

俺一人で野市の住宅を一軒一軒ポスティングしてたのよ。
もう一人の社員には土佐山田を回ってもらって。
日に1万5000歩以上は毎日歩いてたかな。

 

-倒れた後にもそんなに働いてらっしゃったんですか?

 

リハビリよ(笑)
これを半年続ければ来年の春ににはお客さん戻ってくるぞ!とニコニコしながら(笑)

牛乳屋は毎年秋・冬の寒い時期は契約が減るのよ。

そして春・夏にまた増える。

だから秋冬の営業が重要なわけ。

 

そしたら3月に東日本大震災があったでしょ。

この影響でヨーグルトが全くつくれんようになって。

商品のラインナップが一気に減ったのよ。

世間の気分的にも消費が冷えてたからお客さんが全然戻ってこんわけ。

 

-震災の影響がそんなところにもあったんですね

 

この年の春夏にお客さん戻ってこなければもう終わりだったから。

そこでおしまい。

 

でも会社たたむのもお金かかるのよ。

法テラス行ったけんど「会社潰すのに150万円いる」って言われて。

弁護士さんにだいぶんまけてもらったけんどその金もなくて。

お袋が生命保険を解約して出してくれて。

 

-苦しかったですね

 

友達とか、社長仲間とか、大切な人たちからも借りちょったから。

自己破産するということで頭を下げてまわって。

信用も信頼も全部ゼロよ。

 

それでもね、

「俺の方こそすまん。俺の会社がもっと大きければお前を雇ってやれるのに」って言ってくれる人がいたりね。

「自分の気持をしっかり持ちや」って励ましてくれたり。

金返せんようになったのに。

 

本当に、みんなには申し訳ないことをしたと思っちゅう。

友人からは絶対にお金借りちゃいかん。

貸すのもいかん。

借りてた俺が言っちゃいかんけど。

 

一番仲良かった奴とも人間関係が切れてしまった。

俺が悪かったのよ。

見栄もあって態度を変えることができなかったから。

後悔だらけよ。

 

-破産後はどうされたんですか?

 

香美市の市役所で自己破産の手続きしよったら、役所の職員から「福島さんはどうして障害年金もらいやせんが?」って言われて。

すごく腹が立ってね。

 

-どういうことです?

 

倒れてすぐに障害年金の手続きには2回行っちゅうのよ。

社会保険事務所には2回とも不受理になっていて。

江角マキコの年金未納問題とかあった時期で。

審査が厳しかったのかもしれんけど、俺はもう障害者年金はもらえんとあきらめちょったのよ。

そうしたら、役場の人が「それはおかしい。すまんけんど一度社会保険事務所行ってみて」と言われて。

破産してお金ないのにまた金払って診断書書いてもらって。
もう一度申請したら、今度はあっさり通って。

ひと月に6万8000円ばあやけんど、助かった。
これが無かったら生きていけんもん。

市役所の人に障害年金すすめてもらわなかったら今の生活は無いんで感謝しちゅうけんど、やっぱり悔しくてね。

 

-悔しくてというのは?

 

そらそうよ。
もし最初に手続きに行った時に受理してもらえちょったらなら、その時に牛乳販売店やめることができちょったから。

この体では人工授精師もできんし、どこかに勤めることもできん。

あとが無いと思って続けちょったけんど、もし年金があったなら友達に金借りてまで続けずに済んじょったから。
障害年金で、自分で食っていけるんだから。

お袋も年金もらっちょったし、その頃は持ち家もあったのよ(笑)

ここまでのことにはなる前に、販売店を辞めるという判断ができとったわけよ。
そう思ったら悔しくてね。

 

-借金が膨らみ続ける間はやめるにやめられなかったんですね

 

そう、辞めたらご飯が食べられなくなるから。

家があって、月に6万8000円もらえれば生きていけるやんか。

お袋も年金もらっちょったし販売店辞める選択も頭に浮かぶやんか。

それが無いまま、この仕事をなんとか続けていかないといけないと必死にやるしかなかったから。

 

-たしかに、その通りですね

最初の社会保険事務所(※現 年金事務所)の対応は大きな問題だと思います

 

今思えば、だけどね。

事業主が脳卒中から肉体的にも精神的にも立ち直るには1年や2年じゃいかんのよ。
10年は最低かかると思うちょったほうがいい。

立ち直るまでは社長として会社を運営するなんて本当無理やきね。

よっぽどえい相棒とか、共同経営者がおればいいけど。

 

今脳卒中になった社長には年金をちゃんともらっていっぺん辞めることをすすめるね。

立ち直ってから、それでもう一回はじめればいい。

 

-なるほど。すごく勉強になります

 

社会保険事務所と話す時はね、あいつらは信じられんほど適当に仕事しちゅうと思っちょったほうがいい。

まともな相手と思って話しよったらだめ。

それくらいの意識できちんと言うべきことを主張せんと、ひどい目に会う。

 

-具体的でためになります(笑)
高知県の起業推進室とかで講演してほしいです。

 

やめてから分かることもいっぱいあるよね。

障害者になって知ったけんど、四国管財って知っちゅう?

ビルメンテナンスで障害者雇用しちゅう会社。 

あの会社が法政大の先生書いた「日本でいちばん大切にしたい会社」って本にとりあげられちょって。

あの会社は、職員の夢を応援することを一番に考えちゅうのよ。

歌手になりたいとかね。その夢を会社が応援するのよ。

会社は顧客のためだけでなく職員のためにあるんじゃっていうポリシー。

ものすごいよね。

あんなん聞いていたら、いかに自分の経営が甘かったか今になってわかる。

雇うちょった職員の夢とか考えたことなかったもん。

俺は経営者としては下の下やった。

職員の成績を厳しくつけるんじゃなくて、職員が燃えるように自分の夢を追うために、事業主は何ができるか?

社長はそれを考えんとね。

そういうことができて顧客のためのサービスが充実して会社も伸びる。

 

-帰ったらスタッフのみんなに夢を聞いてみます!

 

大事なことよ。
俺が知ったのは会社つぶしてからだけど(笑)

 

-本当にためになります!

これから起業される若い方へのアドバイスとお願いします。

 

やっぱり働き方よね。

俺はずっと脳卒中を酒の失敗と思っちょったのよ。

連日連夜飲んじょったから。

 

でも、脳卒中当事者の集まりでみんなで話するとね、結局働き方なのよね。

社長で365日休み無しとか。
先生で学校と部活顧問で休み無しとか。

俺も休みを取らなくて、仕事のストレスから酒に逃げていてた。

飲まんとやってられんような働き方は、そもそもしたらいかんよね。

 

-はい。肝に命じます。

今日は貴重なお話をありがとうございました!

 


福島さんからは本当に素晴らしいお話を聞かせていただきました。

起業推進や副業解禁も当たり前となり、高プロ制度も始まろうとしている今、たくさんの「働く人」に読んでいただきたいお話でした。

 

 福島さんは現在、脳卒中当事者としてピアサポート(同じような立場の人による)の活動に精力的にに取り組んでおられます。
Web サイトもぜひ御覧ください!

peer-support-reha.jimdo.com

 

日本でいちばん大切にしたい会社

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