デイサービス長老大学

高齢者の皆様と共に未来をつくる。デイサービス 長老大学 のブログです。


爆撃に怯えて

こんにちは、長老大学オンライン支店スタッフのあいかわです。

今回は、Tさんにとても貴重な戦時中のお話を聴かせていただきました。
 

Tさんのお生まれは昭和5(1930)年です。子どものころにちょうど、満州事変(1931~1932)や第二次世界大戦(1939~1945)といった戦争があり、戦時中の経験を語ってくださいました。とくに記憶に残っているのが、小学校のころ、5年生くらいのことだそうです。

 

Tさん:(学校には)防空頭巾を被っていき、救急袋を持って行きました。救急袋にはケガしたときなんかに必要なものを入れてね、毎日それをかけてね、行きました。防空頭巾は母に作ってもらいました。それを毎日つけていって。勉強中にも警報が鳴って、防空壕に隠れたりしました。解除になったら出てきて、授業に戻るという、そういう状況でした。落ち着いて勉強もできんような状態でした。サイレンが鳴ると、みんなが一斉に隠れてね……解除になるまで出られなかった。

 

わたし:防空壕は、学校の運動場にあったんですか?

 

Tさん:そうですね、運動場にあってね。解除するまではそこに隠れていました。

 

わたし:防空壕は、何個もあるんですか?

 

Tさん:3個くらいありましたね。

 

 当時、Tさんの通っていた小学校は、1クラス30人ほどだったそうです。(それでも少なかったほうだとのこと)大勢の子どもたちが校庭に出て、また戻ってというのを繰り返すのは、それ自体時間もかかり本当に大変なことだと思いますし、なにより警報が鳴るたびに、逃げ遅れれば死んでしまうかもしれないという状況では、想像を絶する恐怖を感じると思います。またTさんは、勉強が落ち着いてできなかったということを何度も仰っていました。勉強したいという意欲があっても、自分ではどうすることもできなかったのです。
 また、爆撃の恐怖は昼夜関係なくやってきたといいます。

 

Tさん:夜、家に、電気がついとるとね。そんなときは、電気が外へ当たらないように(漏れないように)、厚紙みたいなもんでしたがね、それを外に明かりが漏れんようにつるしてね、夜はね。そしてね、飛行機が夜来たときはね、また警報が鳴るのでね、その場合は真っ暗にして、明かりをぜんぶ消したり。電球のところに、布をね、かぶせてね。夜はそうやって、外に明かりが漏れんように、戦時中はしてました。

 

調べたところ、これは国の政策として実施されていた、「灯火管制」というものだそうです。

総務省『戦時中の生活等を知るための用語集』
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/word/index_ta.html

(2021/12/19)


さいたま市立浦和博物館『戦争中の人々のくらし』

http://www.saitama-city.ed.jp/05gakko/kyoudo/sensou/sensoutyuu.htm

(2021/12/19)

 

 わたし自身も、「そもそもまだ電球もめずらしいような時代であり、各部屋にあったわけでもない」と勤め先の利用者様から聞いたことがあります。当時の一般家庭の照明はいわゆる裸電球であり、決して充分に明るいとはいえない環境のなかで、なお照明を暗くして、ひたすら耐え忍ばれていたといいます。
 

わたし:Tさんはそういう当時、どんなお気持ちでしたか? こわかったですよね……。

 

Tさん:そうですね。毎日、気になって……夜ね、飛行機がほんと毎晩のように飛んでくると、とにかく外へ明かりが漏れんようにね……。
わたし:おうちには防空壕がありましたか?

 

Tさん:いえ、なかったです。学校にはありましたけどね。

 

わたし:町が爆撃されたことはありましたか?

 

Tさん:なかったですね。けど、(飛行機が)飛ぶのはしょっちゅうでしたね。

 

わたし:当時、楽しかった思い出というものはなにかありますか?

 

Tさん:それはね……楽しかったという思い出はなかったですね、うん……。

 

わたし:小学校だと、運動会をやったりとかはしましたか?

 

Tさん:それはね、ありましたけどね。小さい学校ですのでね。

 

わたし:戦争中だから、そんなに大きくはやれないでしょうしね。

 

Tさん:ええ、そうですね。

 

 「なにか楽しかった思い出はありましたか」というわたしの質問に対し、Tさんは言葉少なでした。まだ小さな子どもであるのに、勉強どころか遊ぶことも満足にできない時代だった。本当に過酷な時を過ごされたのだなと、胸が痛くなりました。

 そして、当時、子どもたちは農作業や工場での労働などにも駆り出されたそうです。

 

Tさん: (若い人が)兵隊に出征した家に行ったりね。農業するのに、年寄りの人が家におって(残って)、農業するような状態でしたので、農家の人のおうちへ行って、まだね、あんまり仕事はね、子どもだからできませんけどね、稲刈りとかね、麦刈りとかをね、したことがあります。仕事はあんまりようせんですけんどね。手伝いになるほどのことはないですけんどね、時々やりました。
 それで、学校を済んでからね、徴用、徴用令があってね。戦時中、ものをつくるところに行ったりね、わたしは行きませんでしたけど。男でも女でも、それがきたらどこへでも回されてね。それでね、わたしは仕事をね、本山町というところに、道場がありましてね。そこの山を拓いたりとかね、耕してね。おイモをいっぱいつくったりとかね……。

 

 Tさんのお話を聞いたとき、わたしは始め、「学徒動員」のことではないかと思いました。しかし、学徒動員というのは、当時の中等学校以上の学徒が対象だったそうです。

文部科学省『学制百年史』

https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317693.htm

(2021/12/19)

 

 Tさんは尋常高等小学校を卒業された後、進学はされなかったため、Tさんの仰った「道場」へ行かれたというのは、1945年3月6日に公布・施行された「国民勤労動員令」によるものだったのではないかと思われます。

 どんなかたちであれ、戦争のために、学ぶ機会を奪われ、代わりに自分たちのいのちとくらしを賭して働く。子どもが子どもとしてみなされず、労働力として扱われた時代。そういった戦争にまつわるお話を聴くたび、私たちがいま平和を享受して生きていられるのは、この時代の方々のおかげなんだと痛感させられます。その人びとの悲しみや苦しみを無駄にせず、生きていられることに感謝して日々を過ごしていきたいと思います。
 なにより、戦争を経験された世代の方々は、いまもうかなりご高齢になられています。ナマのお話を聴けること自体がとても貴重だと感じます。戦後に生まれた世代として、お聴きしたことをすこしでも文字にして記し、また後の世代の方のために残させていただけたらと思いました。

 Tさん、貴重なお話をしてくださり、本当にありがとうございました!

Tさんのお話の続きです。

www.chouroudaigaku.com