デイサービス長老大学

高齢者の皆様と共に未来をつくる。デイサービス 長老大学 のブログです。


二度とあってはならないこと~戦時下の子ども達~

こんにちは! 長老大学オンライン支店スタッフのあいかわです。
今回は、前回に引き続き、T様から戦時中のお話を聴かせていただきました。

T様は、尋常高等小学校を卒業した後、15歳で「道場」というところに行かれたそうです。道場の名前は帰全(きぜん)道場といったそうで、当時の詳細な記憶を語ってくださいました。
ひとつひとつの話がとても貴重だと思いましたので、今回はあえて逐語録の形式にしました。(わたしの相槌などは省かせていただいています)


<帰全道場へ行くことになった経緯>

わたし:道場に行くことになったのは、誰かから言われてだったんでしょうか?

T様:そのわたしらの時代はね、学校を済んだらね、徴用というのがありましてね。戦争中ですのでね、どこかへはね、行かないかんことになっていたんですね。工場なんかでつくったりとかね、いろいろするところへ、どこへ回されるかはわからん状態でね。それでね、(家の)近くのほうがええということでね、道場へ。近いといっても、あんまり。車で行って、一時間弱くらいでしたね。


わたし:Tさんが道場に行っていたときは、だいたい、何人くらいそこに子どもたちがいましたか?

T様:だいたいね、百人くらいでした。


わたし:百人も!? 道場という名前だと、空手とか剣道とかを学ぶようなイメージなんですが、当時のその道場ではどういうことをされていたんですか?

T様:道場ではね、山を切り拓いて、そこにおイモとかね、作物をつくっていました。野菜とかね。


わたし:道場へ行くことになったのは春だったんですか?

T様:はい、春です。4月に入りました。


<道場での日々>
 道場では、子どもたちは朝早くから起きて、毎日一生懸命働いたそうです。


T様:道場ではね、朝6時に起きて。早いですね。「起床ー! 起床ー!」と先生が鐘を鳴らすんです。それでね、みんながね、飛び起きて。それでね、大拝場という、神様を祀るところがあるので、そこへね、みんなが並んで。そしてね、ラジオ体操をする。その後はね、ひとまずお部屋へ帰って、それから仕事を始めるのが、朝の8時ですね。


わたし:朝ごはんはどのようになっていましたか?

T様:大拝場へ行って、体操をしてから、それから食事ですけどね。それがね、食べるものがなにもないのでね、麦ですけどね、麦のごはんにね、野菜をいっぱい切り込んで、それをどんぶりに、鉢を埋めるくらい(八文目くらい?)に入れて、他にはね、なにもなかったのでね。毎日ハンネ(?)で過ごしました。
肉もないしね、お魚もないしね、もうそれだけでね、もうおなかがすいてね……。そしてね、もうほんとに、何キロも痩せていました。でも仕事は一生懸命せんと、先生がやってきますのでね。一生懸命やるんですけどね。


わたし:子どもたちのお部屋は、どういうお部屋だったんですか?

T様:部屋はね、一部屋に7人、8人くらいおりましたね。それでもう、狭かったんですね。ベッドではなく、布団で。布団を家から持っていっておりましたので。道場は木造です。

わたし:木造だと、冬は寒くなかったですか?

T様:道場には4月から9月までおりましたのでね、あんまり長い期間ではなかったんです。


わたし:冬にはもういなかったんですね、よかったですね。でも、夏は暑くないですか?

T様:夏は暑かったですね。暑かったですけど、もうずっと、あっこへ入ってから、みんながタオルをね、ハチマキをしてね。全員がハチマキをしていました。それでね、どれだけ暑くても、夏は帽子はしないのでね。そのハチマキでずっとね、おりました。顔はもう、みんなが真っ黒になっていましたね。


わたし:道場での仕事の内容は、具体的にはどういうことをするんですか?

T様:それはね、開墾、開墾をします。ずっとね、みんなで開墾をします。山ですのでね、土が少ないので、もう根っこを取ったり、いっぱい向こうに土をやって、畑をつくったんです。山の土は固いですね。道具はね、開墾ぐわというのがね、あります。かたちはね、ハート形です。それからね、つるぐわというものありますのでね。それらをだいたいつかってね、やりました。


わたし:くわの大きさは、Tさんの身体より大きかったんじゃないですか?

T様:ええ、そうですね。みんながそのころは、そういう、重たくて大きなくわをつかってやりました。


わたし:その山の名前はなんていう山だったんですか?

T様:山の名前はないですけどね、そこは大石というところでしたので、その人たちの山じゃったと思いますけんどね。それを切らしてもらってね。


わたし:山だと、動物を見たことはありましたか?

T様:山でそんなに見たことはないですけどね。いっぱいみんなが(自分たちが)入ったので、元からおったケモノはもう、どっかへ移ってたんじゃないでしょうかね。


わたし:お昼ごはんはどういったものを?

T様:お昼ごはんも一緒です。最初言ったようなね、麦のご飯に野菜をいっぱい入れたりね、サツマイモを刻んで入れたりとかね。そんなようなごはんでした。


わたし:道場には先生がいたんですよね?

T様:先生というよりね、ふつうの人みたいなような感じでしたけどね。まだ若い人とかね、まだハタチにもなっていないような先生もおったし。


わたし:先生は何人ぐらいいたか覚えていますか?

T様:8人くらいでしたね。


わたし:みんな厳しかったですか? 女の先生はいましたか?

T様:厳しかったですね、すごくね。女の先生はね、2人いました。


わたし:女の先生とは仲良くされていましたか?

T様:そうですね。女の先生はね、ちょっとね、雨の降るときは、家庭科のお話をしてくれたりしましたよ。


わたし:道場では、勉強とかはぜんぜんしないんですね。

T様:しないです、ぜんぜんしなかったですね。ただ働くだけでしたね。


<仕事の苦労>
 開墾という大変な仕事のなかでも、とくに大変だったのは、畑にまくための肥料を運搬することだったそうです。


わたし:Tさんが仕事をするなかで、いちばん大変だと思ったのはどういうことでしたか?

T様:それはね、あの、野菜をつくったりするのにね、肥料がね、いりますがね。その肥料の代わりにね、便所の、トイレのね、尿をね、かついで。女の子もね、ひとつの樽ね、に肥を入れて。それをかたいで(かついで?)、両方でね、かたいでね。それで、坂道を上がって、小さいコグチ(?)をね、それをところどころへつけていましたのでね。それをふたりでかいて(かついで)、肩に乗せて。そしてそれをね、柄杓でね、畑にかけました。坂があったりしますのでね、ひとりではできませんので、ふたりでやりました。重たいしね、坂道とかあるのでね、大変でしたね……。


わたし:休憩はもらえたんですか?

T様:休憩はね、ごはんのときと、3時のおやつのときにですね。ほかにはそんなにね、特別に休憩ということもなかったんですよ。


わたし:おやつで食べるものがなにかあったんですか?

T様:いや、なにもないです、ぜんぜん。


わたし:当時は、飲みものはどういったものを飲んでいましたか?

T様:飲みものいうたら、お水くらいですね。お湯とか、お茶くらいでね。


わたし:お水は井戸で汲むんですかね? 高知はお水がきれいですよね。

T様:そうですね。山の、谷の水はね、きれいでしたね。お水はね。


わたし:当時、何時くらいまで働いていたんですか?

T様:夕方5時くらい、5時から6時くらいにもなりましたね。


わたし:大変ですね……1週間のなかで、お休みの日は? 休みの日はなにをして過ごしていましたか?

T様:休みはね、日曜にあったと思います。洗濯を干したりとかね。自分の着るものの洗濯をしたりとかね、していましたね。


わたし:お休みといっても、やることがあって休みにならないですね……。

T様:そうですね、部屋の掃除をしたりね。


わたし:同じ部屋の子たちとは仲良くなりましたか?

T様:そうですね、全員仲良かったですね。べつの班の人ともね。


わたし:部屋の人たちとは、歳は同じくらいですか?

T様:そうですね……いや、それより年上の人もおりましたね。


<自決を考えた子どもたち>
道場へ行かなければいけないと決まったときの心情を伺うと、「みんなね、仕方のないことでね」とT様は仰いました。


わたし:家族と離れなきゃいけなかったのはさみしかったですよね。

T様:そうですねえ。でもそのときはね、そんなのみんながいっしょでね……全員ね、四国からね、来ておりますのでね。四国のところどころからね、集まって。まあ、もう当たり前のような状態で。


わたし:道場にいたのは、半年くらいで、9月までだったんですよね?

T様:そうですね。でも8月、ちょうど終戦になりましたがね。8月15日が。もともと、道場には半年ということで(決まっていて)行くのも行きましたけどね。ちょうど、おるうちに終戦になって。そして、9月の終わり、9月末にね、家に帰りましたけどね。そのときまだ、男の人はね、残っておった人もね、おりますね。そこで(その後残って)まだ1年くらい働いた人も、男の人はおりましたね。女の人はみんな帰りましたけど。


わたし:じゃあTさんは、道場で終戦の知らせを聞いたんですね。

T様:そうです。そしたらね、みんながね、泣いて。どんなに、これからどんなになるかもしれん、いうて。みんなが抱きおうて、泣いてね。そのとき、終戦のラジオを聞いたんでね、それでまあびっくりしたんですね。


わたし:みんな、自分たちがもうこれからどうなるかわからなくて本当に不安だったんですね。

T様:そう、もうみんなが不安でね。みんながもう、どうやって死ぬる、と言うた人がね。家のもん(者)とくくりあってね、川へ飛び込むというね、人もおるし。山の奥へ隠れるという人もおるし。いろいろね、みんながね、わいわい泣いたというのがね、いちばん印象に残っています。


わたし:わたしも聴いていて泣けてきました……。無事に、長生きされて本当によかったですね。道場から帰って、家族に会えたときはやっぱりうれしかったですか?

T様:ええ、うれしかったですねえ。


噛みしめるようにしてそう仰ったT様の表情が、こころに深く残りました。道場へ行くことになった当時を振り返られ、仕方のないことだったと仰っていたT様でしたが、本当はどれほどおつらかっただろうと思います。
そして、T様がいちばん最後に話してくださったのは、終戦後に高知市の様子を見に行かれたときのことでした。


T様:そしてね、終戦になってね、2日くらいしてからね、高知(高知市)が焼けちゅうところをね、道場の先生がみんなをね、連れて、見せに行ってくれたんですがね。そのとき、土佐山のほうへ寄り道をしてね、それから高知へ行って、そして、行ったときにはまだ、家がくすぶっていてね、焼け野原になってね。そしてね、ちょっと雨がパラパラしてきてね。トタンをね、破れたトタンを頭にかぶって、載せてね、歩いている人がおりましたがね。まだところどころね、くすって(くすぶって)、煙が出てね、まだ火が残っとるところもありました。


敗戦の結果、どんなことが待ち受けているかわからない。戦争が終わったことへの安心感など感じることもできず、ただ未来に対する深い絶望を感じる。まだ中学生くらいの子どもが、家族とどうやって死のうかなどと泣きながら話し合うというのは、本当に信じられないような状態だと思います。わたし自身、その話を聴いている最中、涙が出てきました。


いまなお、世界のあらゆるところで紛争、戦争の火種は絶えません。前回に続き、今回もT様は本当に細かいところまで憶えていらっしゃり、その壮絶な体験を自ら語ってくださいました。二度と戦争などあってはならないというお気持ちや、当時の記憶を後世に残したいというT様のお気持ちを、すこしでもこのブログでお伝えできましたらさいわいです。

T様、今回も貴重なお話を聴かせてくださり、本当にありがとうございました!

 

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