こんにちは。
デイサービス長老大学 代表の澤本洋介(@sawamoto482)です。
学校の化学部から軍隊にスカウトされたご利用者さんから、空襲後の不発弾処理で負傷した時のお話をお聞かせいただきました。
学校におるときに、部活動の中に化学部がありまして、私は化学部に入っていました。
当時はほとんどの学校に化学部がありました。
そこにサーベルを挿した兵隊が来ました。
学校から軍隊にスカウトするため。
成績がよくて言うことを聞いて、化学に興味のある子を引っ張る。
校長に「学校に籍は置いておくから軍隊に行ってこい」といわれました。
僕は17歳で志願しました。
軍隊に入ってから寝る間も無いくらいの訓練でした。
化学の勉強、爆弾の勉強。
落ちてくる爆弾によって、信管の位置が違う。
17歳で班長をしていました。
班長で、伍長 下士官でした。
下士官というのは同僚はいないですから。
周りは30歳とか40歳とか年上ばっかり。
こちは青二才でしょ。
それでも軍隊ですから、班長として命じないといけない。
-相当優秀だったんですね?
というより、人が足りなかったんですね。
知識のある人がもういなくなっていた。(※戦争末期だから?)
知識のある人間が重要視されるから班長になりました。
空襲の後の爆弾の処理班にいました。
東京近辺が集中にやられたあの時分の。
東京中が不発弾だらけになった。
焼夷弾も時限爆弾も、あの時分の化学で十分できましたからね。
空襲の度に焼夷弾も短期間でどんどん変わっていく。
新兵器がどっさりでてきてね。
強力になっていく。もっと効率よく爆発するように変わる。
習った知識と違う爆弾を処理しないといけない。
1トン爆弾の処理をしたこともあります。
直径で1メートル 長さが2メートルあります。
それが爆発したら何百メートルも吹き飛ぶ。
私は水戸でけがをしました。
水戸の空襲の後の爆発物処理。
不発弾はどっさりありましたからね。
処理も命懸けですね。
掘ってクレーンで持ち上げて、信管を外す。
その時に右の目が吹き飛びました。
左手にはまだ破片が入っています。
指がちぎれかけて、目がすっとびました。
病院では坊やと呼ばれてました。
まだ若かったから。
僕らの年代で予科練入ったのはだいたい特攻で死にました。
一番命が軽く見られた時代だから。
「お国のために命を捨てる」から
「命をお大事に」という教育に変わったでしょ。
戦争の当時の偉い手に対しては、うんと憎しみがあります。
兵隊から帰ってきてから人前に出るのが恥ずかしかった。
けれども、部活動は柔道部と野球部とやりました。
野球はキャッチャーをやりました。
キャッチャーミットの方が全部の指で使いやすいでしょ(笑)
※聞き書きには、記憶違いなども含まれている場合があります。
なるべく、正確な情報に近づけたいと思っていますが、十分にはできていません。
間違いにお気づきになりましたら、メールやTwitterのDMなどで教えていただけたら嬉しいです。